田村浩一の言わせてもらいます Vol.5

ポンペイ見聞記
ポンペイ遺跡
ここ数年、元気で動けるうちには、出来るだけ旅行する。それも国内はいつでも行けるので、海外にと、今年は例年利用している、H交通社企画の「とっておき南イタリア・シチリア島8日間」を申し込み、去る6月29日より7月6日まで参加した。バスによる長距離移動も多く疲れるのでは、でも連泊が2回あるので大丈夫か、など心配半分のプランであったが、成田でビックリ!。  35名の参加であったが男性は6人のみ。それも私より年配の方もいる、29名は女性で子育てが終わりお金と時間が自分の意思で自由に使えそうな人生後半期の方たち。私はこれは負けられないと成田では奮起した。(後半は残念ながら少しバテた)

余談はさておき主要な観光地を6箇所ほど回った。中でも、短時間の見学であったが印象的であった世界遺産『ポンペイ』のことを書いてみる。

イタリア半島最大のヴエスヴイオ火山が噴火したのは西暦79年(今から約2000年前)。の8月24日午前10時頃。
休火山であったこの山が1000年の眠りから目覚め、半径数マイルの地域を大噴火が襲った。最初は激しい爆発が起こり、高さ20キロメートルを超える巨大な雲が火口から立ち上がる。火山灰とガスと軽石が混ざった物質はおりからの強風によってポンペイ市街に降りはじめ翌日まで休みなく続いた。翌25日午前7時頃には溶岩流が街を襲いポンペイの総人口の15パーセントにあたる約2000人が窒息死または焼死したといわれる。その後2度目、3度目、の溶岩流が街を襲い建物の最上部まですっぽりと包み込んでしまった。18世紀になって発掘されるまで、ポンペイは厚さ5~8メートルの灰の下に埋もれていたのである。

ポンペイの発掘が始まって約250年。これまでに遺跡全体の4分の3が掘り出され、古代ローマ帝国の都市が再び我々の前に姿を現した。広さは66ヘクタール(東京ドームの約14倍の広さ)あり、火山灰が取り除かれたのはまだ44ヘクタールにすぎない。すべてが発掘されるにはまだ約100年も要するという。私はごくごく一部を見聞しただけだが2,3ここに紹介する。
初めは『居酒屋』。(写真1)

『居酒屋』
当時は酒といってもぶどう酒だけである。ポンペイの遺跡には住宅の壁や競技場の壁に落書きが多く残されているが、その中には酒にまつわるものも多いという。「いかさまお前に降りかかればいいさ、居酒屋のおやじよ。水を売ってるくせに、自分では生酒を飲みやがって」という呑み助の繰言もあった。これを書いた男はツケで飲むのを断られたのか、金がある分だけ飲んで追加を断られたのか、いつの時代でも酒飲みの根性は普遍だ。酒のツマミやぶどう酒を片手に、そこで話題になった話は仕事のことか彼女のことか、奥さんの悪口か、家のゴタゴタか、想像するだけでも楽しい。「トコトン飲むぞ」の落書きはやけ酒か、嬉しいことがあったのか。その気持ちが酒に走るのは今も昔も変わらない。現代の感覚でワイン一杯がおよそ50円で飲めたという。チーズもほぼ同額、パンは大きいものが100円。1000円もあれば十分だ。明日への活力回復にいつの時代でも『居酒屋』は欠かせない。

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▲(写真1)

『娼婦の館』
次は『娼婦の館』。(写真2) たまたま修復中で内部を見ることが出来なかったが、ここが売春宿だったところ。と説明を受けた。ここは建物全体が売春宿。約30軒も発掘されているという。中には一部屋だけの質素な場所もあり石のベッドの上にわら布団といった造りもあったらしい。『娼婦の館』はポンペイに限らず、世界的な現象でポンペイだけが特に乱れた生活を送っていたわけではない。むしろ、この時代は深刻な性病などが入っていなかったから、かなりおおらかに性を楽しんでいたと考えられる。落書きの娼婦の広告には「粋なやり方で2アス」(アスは当時のお金の単位)といったものがあるが、2アスは安ぶどう酒2杯の値段であった。ずいぶん安い値段である。路面には(写真2)にあるような『娼婦の館』へはこちらへ。といった案内が男性のシンボルで描かれている。なんと親切なことか。文字が読めなくても行けるように、酔っても間違わないように。夜道でも場所がわかるように。か。現代で言えば電話ボックス内のチラシか。興味深く拝見した。このような案内はトルコの遺跡にもあるそうで、当時は売春といっても現代の私たちが抱く後めたいイメージとは異なるものだったかもしれない。

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▲(写真2)

『横断歩道と飛び石』
3番目は『横断歩道と飛び石』。(写真3) ここはポンペイ市内でも目抜き通りで道幅は約4メートルで石による完全舗装である。車道と歩道それに横断歩道、ところどころに公共の水飲み場。今日の道路に必要な機能が完備されていることに驚かされる。当時は馬車が運搬の手段、硬い玄武岩に車輪の跡が深く残されていることから相当な交通量であったことが想像される。道路の左右には広い歩道があり高さ60cm程度の大きなブロックで車道と隔てられている。車道側の角には馬を繋ぐための孔が空けられている。私の家内が立っているのは横断歩道の飛び石。車輪の通る轍をはずして石が歩道と同じレベルで等間隔に並んでいる。工事は平面交差の方が楽だと思うのだが当時の交通行政のレベルは相当なものだ。雨の日は足元が濡れないで横断でき、子供たちはこの石を飛んで渡ったのだろうか。通りに面して居酒屋やパン屋や民家の玄関があり賑やかな人声が今でも聞こえそうだ。

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▲(写真3)

道路に面した民家はすべて石造りで厚いレンガの壁で建築されている。採光や換気や断熱など、木と紙で出来た日本の建築に比べるとあまり居住環境は良好でないと思われるが実感がないので正確な判断ができない。研究してみたい。公衆浴場の壁は通気層のある2重壁になっていた。建築技術は相当レベルが高かったかもしれない。

ポンペイは最も有名な世界遺産。書籍やビデオなど文献も多い。今まで一度も開いたことのない資料にこれを書くために初めて目を通した。短時間でしかもごく一部の見学であったが貴重な見聞であった。「百聞は一見に如かず」という。見て歩いて肌で感じる。年を取るごとにだんだん物事に興味や関心がなくなるといわれる。これからもこの格言を大事にしたい。

参考文献
1.ローマ帝国Ⅱ繁栄 ポンペイの落書き
/青柳正規 NHK「ローマ帝国」プロジェクト
2.ポンペイ サルバトーレ・ナッポ
/横関裕子 訳 ㈱ニュートンプレス


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投稿者 sotodan : 2005年09月14日 11:38